斧屋さんの論文『アイドル「オタク」の宗教性』についてのメモ


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盲信 妄論

 に掲載されている斧屋さんの卒論『アイドル「オタク」の宗教性』についてのメモ。気になる点いくつかについての覚書です。

 こういうふうに、アイドルとヲタの関係を真剣に考察しようという試みは貴重なものだと思いますし、自分としても方向性は違えど、いずれ考えてみたいテーマでもあります。
 そこで、自分が考えるための覚書として以下を記しておきます。


2ちゃんねる

 2ちゃんねるの影響をまったく受けていないヲタも多数いるということ。
 別の掲示板(センラン、ASA板など)も大きな勢力として無視できないのでは。
 たしかに、2ちゃんねるにおいてはモーニング娘。は大きな存在です。
 また、最近の「ハロモニ」で2ちゃんねるが意識されていたり、2ちゃんねるは重要ですが、それだけを強調するとバランスに欠けると思われます。


マジヲタの定義

 「マジヲタ」はひとりのメンバーに執着する、とされていますが。
 「アイドル」をマジで応援することと、「単推し」とは別の概念だと思われます。
 「マジヲタ」の推し対象は一人であるべきだ、ともし斧屋さんが思われているとしたら、それは「マジヲタ」は「推しメン」に対して擬似恋愛感情を持つものだから、という思想が前提されているからでしょうか?
 しかし、擬似恋愛感情はなくても、マジヲタは成立します。
 たとえば、モーニング娘。を「実の娘」のように応援するという姿勢。
 実の娘であれば「ダメな子ほど可愛い」に繋がりやすく、また、実の娘は複数いてもおかしくないので、当然、マジヲタと複数推しが両立することになります。
 アイドルを女神として崇拝する場合でも、女神は複数でありうるでしょう。ギリシア神話に無数の女神が登場するように。


DDの定義

 DDは「誰でも大好き」。
 たしかにこの言葉が生まれた当初は、「浮気者」という否定的な意味合いがあったのでしょう。
 しかし現在では、あえて、積極的な価値をDDに見出そうというヲタも少なくありません(DD上等派?)
 つまり、「最愛の推しメンに注ぐ愛と同じくらいの愛をすべてのモーニング娘。メンバーに注ぐという姿勢」それは、むしろ高度に倫理的/博愛主義的な尊敬に値する態度とすら言えます。
 DDという言葉をそのように解釈し直そうという動きもあるので、「DD=アイドルを消費する、尊敬はしない」と書かれると、そうではないDDも大勢いるのでは、と疑問を感じます。
 DDとマジオタはやはり両立すると思うのです。


現場系/在宅系

 斧屋さんの考察では、在宅系ヲタのことはほとんど出てきません。
 (おそらくご自身が現場系なので、その記述が多くなったのだと推測しますが)
 しかし、ファンを総体として考えたとき、現場系と在宅系とではどちらが多いのでしょうか。
 在宅系は、ほとんど「視聴率」や「CD売上げ」といった数字としてしか現れないかもしれませんが、無視できない存在だと思います。
 (当然、「現場」ではその存在はゼロですが)


「現場系=ヲタ芸肯定派」?

 斧屋さんの論文には、ヲタ芸否定派の現場系ヲタが出てきませんが、実際には、ヲタ芸を打つ人のほうが少数派なのではないでしょうか?
 (DVDなどで観客席をみた印象にすぎませんが)


「キャラ」について

 東の言う「キャラ萌え」(データベース消費)とは、わたしの理解では、マンガやアニメを受容する際に、ストーリーや、登場人物の性格などを度外視して、その中に登場する記号化された「キャラ」に執着することだと思われます。
 つまり、どんな物語の、どんな登場人物であるかに関わらず、(また作者の固有性も無視して)「猫耳」「メイド服」「ルーズソックス」「体操着やらブルマーやら」「メガネっ子」etcであることによって執着の対象となる、という感覚。

 それに対して、モーニング娘。における「キャラ」とは語の通常の意味での「個性」、つまりメンバー各自の固有性の表現であると感じられます。
 モーヲタは「キャラ」という記号に萌えているわけではなく、キャラを持つメンバーを愛していると思われます。例えば、「ピンク大好きキャラ」であれば、石川でも紺野でも道重でもいい、とにかく「ピンク大好きキャラ」であればいい、という「キャラ萌え」のファンは、いたとしても例外的だと思います。(同様に「寒キャラなら石川でも初期亀井でも同じ」というファンも少ないのでは)
 モーニング娘。における「キャラが立つ」とは、あくまでメンバー各自の代替不可能な固有性を強調する属性として機能するものだと思うのです。

 ハロプロでもっとも自立した「キャラ」として成立したのはおそらく「ミニモニ。」ではないでしょうか。ミニモニ。商品は、ミニモニ。が実在の歌手であることを知らない子供にまで、あのCGのキャラクターを通じて認知されていたと思います。
 ミニモニ。関連商品(子供用の下着、服、靴、etc)はまさに、キャラクター商品でした。
 しかし、それでも、「大の大人」のファンたち(ヲタ)にとって、ミニモニ。という「キャラ」でさえあれば、それを構成するメンバーは誰でもいいというわけには行かず、矢口真里高橋愛の交代は重大事でした。「キャラ」よりも、「辻加護というお子ちゃまに振り回されて苦労する矢口おやびん」という物語性が重視されていたと言えるかもしれません。

 従って、モーヲタが「物語消費」から「キャラ萌え」に移行した、と、本当に言えるのか、やや疑問であるように思うのですが。



モーニング娘。はヲタにとって、本当に宗教の代替物として機能しているのか

 これについては割愛しますが、「覚悟系」「修養系」という宗教分類と「マジヲタ」「DD」が対応すると言えるのでしょうか。
 綿密な検討と論証が必要だと思われました。
 それ以前に、宮台の「浮遊系」「覚悟系」「修養系」と言った分類も、いかなる場合に妥当といえるのか、また、宮台のいう「現世利益型」の宗教に近い態度に対応するヲタの態度なども考えうるのではないか、などなど、色々な論点がありうると思われます。


 以上、簡単に感想をまとめました。