「閉じない」ことの倫理

 すでにコメント欄にも書かせていただいたことの繰り返しになるけれど、僕は、閉じないことこそが倫理であり、愛の基礎的条件だと考えています。
 以下では、その観点から、斧屋さんのエントリに、応答してみたい。


2008-09-20 閉じないで愛する
■[愛][ヲタ][倫理]「閉じない」ようにアイドルを愛せるか
http://d.hatena.ne.jp/onoya/20080920/1221939478

リスク無く、傷つくことなく、楽しく過ごせれば幸せだ、そうして、変わらない自分でずっといられる、自分を肯定しつづけられる世界、これを「閉じた世界」と言おう。
 これは、自閉的な「個」ないし閉鎖的な「共同体」の姿を言い表している。他者のない世界、脅威から隔離されたストレスのない状態。

リスクがあり、傷つく可能性があり、自分を変えていかなければならない、自分が時に肯定され、時には否定されながら成長モデルに自分を乗せていかなければならない、そうした中で「他者」と出会い、そのコミュニケーションの奇跡的成立を幸せとする、これを閉じない、「開かれた世界」と言おう。
 「成長モデル」かどうかはさておき、これは、他者との社会的な関係のアンサンブルであるような社会である。

一体どちらを選択するか、ということだ。
 斧屋さんは、その選択が、等価的であるかのように語っている。どちらを選ぶのも、その人の自由。だが、はたしてそうなのか。それが疑問。
 ただ言えることは、わたしには、他者に向かって「開くこと」「閉じないこと」こそが倫理だと思えるということ、それこそが、愛の基礎だということ、他者を欠いた自閉的環境には愛はないのではないか、そこには自己保存の欲求しかないのではないか、と思われるということ。

狭いコミュニティだけで生活が成立していた時代は、「閉じた世界」でよかった。
 これは、事実だろうか。これは一種の抽象的なモデルでしかないのではないか。
 多くの論者が様々な表現で語っているので、典拠は示さないが、社会とは他者・外部との交通によって初めて立ち上がるものだ。共同体は自立的に、孤立して成立するのではなく、他者との関わりの中で成立するのであり、他者が先行している。おそらく共同体だけではく、個の成立の事情も同様であるはずだ。だから、

近代化した社会においては、「他者」と出会わなければ生きていけない
 というより、他者と出会わなければいけないのは、なにも近代化以後には限定されない、社会(そして個)そのものの存立の基礎条件・前提なのだと考えられる。


では、ネットやらケータイやら、コミュニケーションツールが発達した現代、狭いコミュニティに自閉していくことも可能であるかのような現代
 (これは東あたりの議論を踏まえているのかどうか、それはさておき)「自閉していくことも可能であるかのような現代」はあくまでも「あるかのよう」に見えるだけであることに気づくべきではないだろうか。「ネット」や「ケータイ」などの「コミュニケーションツール」の中だけで人の生が完結することはありえない。それに掛かる料金は誰かが現実に労働して支払っている。それらのプラットホームは誰かの労働によって使用可能になっている。「ネット」や「ケータイ」の向こう側には生きた人が、他者がいる。
 「自閉していくことも可能」という考え方は、人生や生き方の「選択」の問題だろうか。それは、端的に幼稚な、井の中の蛙的な世界認識なのではないだろうか、という疑問を、わたしは払拭しきれない。思うに、「かのような現代」は現実というより幻想であろう。それが現実に見えるとしたら、現実によく似たシミュラクルに幻惑され、偽装現実の中で夢を見ているに過ぎないのではないか、という疑問がある。


ぼくは、「他者」ということを意識して倫理を模索していきたい立場だ。
 わたしもまた、その立場を共有する。というよりも、むしろ、他者に向かって開かれていること、閉じないこと、そこにしか倫理は成立しないと考える(他の立場は取れないと考える時点で、それは一つの相対的な立場ですらない)。

「死にたくなるショック」を初めから回避してアイドルを好きになる、それって恋愛なのだろうか、傷つく可能性を減らして人を好きになるって、一体なんなのだろうと考えてしまう。アイドルに「本当の恋愛感情」を抱いてしまったファンに、恋愛をしない安心なアイドルを提供する、それって、アイドルがもはやかけらも「人間」ではない、それこそ「擬似恋愛」になるというなんとも皮肉な事態だ。
 この認識は完全に同意できる。それこそ、わたしが『ミキ受難曲』などで、延々と言い続けてきたことそのものだ。
 斧屋さんは、そのような事態において、「アイドルがもはやかけらも「人間」ではない」と書いている。その通りだと思う。
 人間ではないとしたら何か。それはモノであり、商品である。「アイドル」は処女性担保商品となり、アイドルファンはその時点で「消費者」や「クレーマー」となる。「狼」に書き込まれた非常にえげつない表現で言えば、この恐るべき消費者の態度は、象徴的に言えば「お前の処女膜に何百万つぎこんだと思ってるんだ、金返せ」という表現に集約される。
 ファンにとってアイドルとはそのような「商品」にすぎないと見なすならば、それはアイドルにとってはファンは「札束」「金づる」「カモ」にすぎないと自ら自己規定するに等しい。人間は、人をモノあつかいすることによって自分もモノ化するのだ。

 続いて、関連するエントリからも引用を続ける。

http://d.hatena.ne.jp/onoya/20080920/1221939477
2008-09-20 閉じないで愛する
■[ヲタ][愛][身体]恋愛からアイドル現象を相対化する

基本的に、こうした不安からヲタは解放されているように思える。
 「擬似恋愛」において愛されることの不安からヲタが解放されている、ということは、アイドルとヲタの間に開かれた人間関係が成立していない、つまりヲタが「閉じている」という事情をあらわしているだろう。

アイドルはヲタを基本的に全肯定する。全肯定とは、実はコミュニケーションではないのかもしれない。こちらからの問いに、常に答えがYESであったら、それをコミュニケーションとは言えまい。
 新垣里沙は基本的にファンに対して「ありがたいねー」としか言わない(言えない)。常に感謝を表明する。まさに全肯定だ。言い換えれば「お客様は神様です」という優等生的なタテマエから彼女が一歩も出られない、ということでもある。それは彼女がファンの怖さを嫌というほど知っていることの証だ。ファンはほんのちょっとのきっかけで恐るべきクレーマーに変身する事、そのことの恐怖を彼女は決して忘れない。
 それに対して、藤本美貴モーニング娘。を「脱退」して以後も、かなり大胆にファンにツッコミを入れ続けている。イベントに連日のように応援に来てくれるファンに対して「わたしに向かってわたしの写真のついたタオルを見せてどうしたいんですかね、意味がわからない」と言い放てるアイドルであり続けている。藤本美貴はファンとの間に、対等で親密な人間関係を樹立しようとしているとわたしには思えるし、そこにはファンに対する強い信頼があると思う。
 閑話休題
 「全肯定とは、実はコミュニケーション」ではなく、むしろ実態としては、その拒絶に近いだろう。
 他者との真の交通・コミュニケーションとは、決して「馴れ合い」や「なあなあ」ではないはずだ。正面からぶつかり合い、ときには傷つけあい、闘争すること、それを恐れないことこそコミュニケーションの名に値するだろう。
 「擬似恋愛」において、絶対に傷つけられたくない、だからアイドルは絶対に恋愛禁止、という論理に「他者」はいない。他者との真のコミュニケーションは志向されていない。そこには愛も恋愛も成立する余地はない。


 この事情についてコンスケさんは、実に適切な言葉を書き付けている。

失恋の可能性が無い恋なぞ、恋ではない

http://d.hatena.ne.jp/bakery_attacker/20080918#p1
[ハロプロ全般]成就しない恋もまた良し(涙w

 これは、恋の条件を表現した言葉として、きわめて美しく力強い。失恋の可能性こそが、恋愛の成立可能性を基礎付けるのだ。


アイドルに恋愛禁止させることは、 それこそ、
アイドルとヲタの関係をここで言うところの「金で結ばれた擬似恋愛」としてしまう流れだと思う。
俺は、娘。に擬似恋愛してるんじゃなく、
リアルに恋してるし、(たぶんきっと)愛してる。

 おそらく、「消費者」であることに満足しているヲタ、アイドルを真剣に愛してしまう者をせせら笑うヲタ(「マジヲタ気持ち悪い!」「アイドルごときに何求めてんの?バカじゃね?」)は、「金で結ばれた擬似恋愛」をこそ求めているのかもしれない。絶対安全なエンターテインメント。「つかえる」「オナペット」としてのアイドルがあればいいのであり、アイドルの人間性など知ったこっちゃない、という立場。そういう立場は論外だから、ここでは放置してもよい。
 問題は、アイドルに真剣に恋していると主観的には思っているヲタまでが、「恋愛絶対禁止」を叫んでしまう、という点にある。
 彼らは、絶対に自分が傷つくことがないように、安全な陣地を作ってそこに収まった時点で、ほんとうの恋愛(傷つく可能性も含めた)に出会う可能性は消えうせてしまう、という事情に関しての自覚がないのだろう。
 アイドルに「恋愛絶対禁止」を要求する、その利己的な思いは、間違っても恋ではないし、清らかな片思いでもない。それは自分に都合のよいオナペットの使用価値が目減りすることを恐れる恐怖、大きく言えば自己保存欲求にすぎない。
 もし、それが片思いであるなら、その対象であるアイドルを遠くからそっと見つめているだけで恋の苦しさと美しさを実感できるはずだ。
 どうしてその対象に自己中心的な要求など押し付けることができようか。



P.S.
 「萌えぎのエレン」さんからTBを頂戴しました。感謝しつつ、応答を試みます。

アイドルのキャラクター化について その2 - activeエレン
http://d.hatena.ne.jp/eal/20080920/p1

 エレンさん(と呼んでいいのでしょうか)は、基本的には、アイドルを人として、生きている女性として、虚構ならざる現実の存在として認めようとしていますし、現代的な開放的な性観念についても、基本的にまったく同意見です。
 しかしながら、以下の文章については、どうでしょうか。


「アイドルである、あの子たちは処女だと信じて疑わない」と「彼女たち自身の主体(性欲)については、あくまでも彼女たち自身の人権として、その一切に干渉しない」が両立しなければ、ぼくは、彼女たちを応援することができない。
 エレンさんは、客観的に事実として彼女たちが恋愛しているか否かは見ないことにする、不問に付すと言います。しかるべき態度と言えます。しかし、主観的にはあくまでも、処女であると信じられなければ応援できないと言うのです!
 ここでは客観的な彼女らの生存と、ヲタとしての主観的なアイドル像は切り離されており、その主観は、生身の彼女らの存在をそのまま受け入れられません。そこで、彼女たちのうちの「キャラクター」という部分のみを受け入れる、という態度へと到ります。

だったら彼女たちには、いったん「キャラクター」となっていただく。カメラに映った彼女たちは、あくまでもアイドルとしての「部分」であるということにする。彼女の何割かの「部分」、それが「キャラクター」として切り売りされる。

 もし、どうしてもアイドルに処女性を求める主観的必要性があるなら、たしかにそのような技巧的な態度もまた必然的に要請されざるを得ないでしょう。
 しかしわたしは恐れます、もしアイドルに処女性が必要なのだとしたら、中澤裕子はアイドルでいられるでしょうか、藤本美貴はどうですか、過去の恋愛が暴露されようとした「A」さんは。
 彼女たちは、わたしにとって他に類を見ない圧倒的に素晴らしいアイドルたちであり、それは現在もなお変わりません。
 なので、わたしとしては、アイドルに処女性を求めることはできませんし、もちろん、求める必要もないのです。

 また「キャラクター」に関していえば、人間は(とくにヲタという側面で?)、人間を生きた人間として受け止めることが困難になってきているのだろうか、と感じます。
 「キャラクター」においては、個々に特有な人格や単独性(ユニークネス)が切り詰められ、虚構化され、記号化されています。人格が野生だとすれば、「キャラクター」や「キャラ」は文化産業によって綺麗に成形された人工的加工品だといえるでしょう。そこでは、受け手の側で受け取る用意のある安全な(快適な、傷つく恐れのない)側面のみが「キャラクター」として認証されるとも言えるでしょう。「キャラクター」は生身の多様な人間性のごく一部分であり、モノ化されており、物象化されています。このようにモノとしてしか人間をも受け入れられない、という傾向は、やはり受け手であるわれわれ人間が、現実的社会過程において恒常的にモノ扱いされ、モノ扱いされる/することが対人間の態度としてごく普通のことになっていることの反映なのだろうか、という疑問を抱くのです。