則天去私について

「不自然は自然には勝てないのである。技巧は天に負けるのである。策略として最も効力あるものが到底実行できないものだとすると、つまり策略は役に立たないといふ事になる。自然に任せて置くがいいといふ方針が最上だといふ事に帰着する。」(漱石:大正四年『断片』)
 ここでは「天」は「自然」と等値とされている。天は自然のことだと見られる。漱石は、作品の中で幾度となく「自然に負かされる」「自然には勝てない」と繰り返している。とすれば、「則天」とは、自然に逆らわない、と解釈するべきなのだろう。世間体に配慮して愛を諦めたり、大人のマナーとして真実に口を噤んだりすることが「不自然」であり、自然に則して生きるとは、例え世間的には不倫であり、社会から批判される愛であっても、それが真実の愛であれば、それに従うより他はない、という諦念ないし覚悟であろう。
 では、「去私」とは。それが、「則天」と矛盾しないものであるとすれば、「私」とは、自然に逆らう自我、世間体に塗れ、「真面目」を放棄し、大人らしく嘘を方便として使いながら生きるような「私」であろう。
 だとするなら、「則天去私」とは、漱石が晩年にたどり着いた認識や悟りなどではなく、『坊ちゃん』がついに開き直ったのだ、と見るべきなのかもしれない。
 おそらく、漱石は死ぬまで宗教に逃げたりはしなかっただろう。理にとどまっただろう。「悟り」は認識の敗北であり、逃避である。漱石は最後まで、そう考えていたに違いない。
 それは、これから『道草』『明暗』を読む中で、分かってくるだろうか、それともやはり分からずじまいだろうか。