漱石『道草』

 『行人』に続いて『道草』を読んだ。その間に『こころ』が挟まっているのだが、中学生の時分から何度も読んだ小説なので飛ばした。40の今読めばまた違った読みになるとは思うけれど。
 『道草』の文体を「引き締まっている」と書いたが、多少物足りない気もする。粘りつくような描写の迫力に欠ける。エピソードで語るべき部分を抽象的な説明文で済ましている箇所が多々ある。エピソードも力が弱く、物語から浮いて、説明のためのエピソードになっているものがあるように思える。
 『門』『行人』『こころ』などで追求される「夫婦」という主題は、ここでも中心的なものだが、新潮文庫の解説にあるように、より深く追求されている、とは思わない。自伝的小説ということで生活感はあるが、テーマとして深められた印象は薄い。
 そして、『道草』では、漱石は夫婦を冷静に客観的に突き放して書こうとしている。そこに、ユーモアすら生れている。息が詰まるような凄まじい雰囲気ではない。
 『道草』の夫婦はよく会話する。お互いがすれ違う場面も多々あるが、ギクシャクしながらも温かみのある時もしばしばある。
 そして、なんといっても妻のお産のシーンが幸せに溢れて感動的だ。産婆が駈け付ける前に赤ん坊が生れてしまい、どうしていいか分からずにうろたえる健三の姿は素晴らしい。この小説の最大の読みどころになっている。


 この後『明暗』へと続く、長編の流れの中で、この小説は、ホッと息をつく休憩地点のようだ。話もどちらかといえば、金をせびりに来る養父との関係が中心だし、若かりし時の事を冷静に振り返って書いている、という余裕がある。
 だからこそタイトルが『道草』なのかな、テーマを追求するという一本道からちょっと枝道に遊んでみた、という小説なのなのかな、という印象を受けた。


 「世の中に解決すること、片付くことなど、ほとんどない」というセリフが印象的。
 まさにね、まさにそのとおり。
 過去の亡霊はいつまでもしつこく纏わりつき、粘着し、頼んでも居ないのにやってきて、現在を憂鬱にし、未来を恐怖に陥れ、不安にさせる。
 まさにそのとおり。
 深々と実感する。絶望とともに。


 次に、『明暗』に進もうか、それともやはり『こころ』を読み直そうか、思案中。
 いづれにしても、『明暗』の次は『猫』というのは間違いないんだけど。