モーヲタと「不惑」 〜40歳がどないやねーん!!〜

モーヲタと「不惑」 〜40歳がどないやねーん!!〜から、一部引用

 モーニング娘。は歌った。"「何度も夢を見てきた/あきらめたりは出来ない」(モーニング娘。『みかん』2007)"夢をあきらめないということは、批判とその対象たる現実との弁証法的闘争過程において、ユートピア的契機を決して手放さないということである。しかし悲しいことに現代日本においては、「いい大人がいつまでも学生気分で青臭いことを言うな」といった言葉のほうが圧倒的に優勢であり「現実的」であると見なされている。つまり「大人になる」ことと「諦める」こととは同義なのである。そのような社会にあっては真理・理想・正義・正論という言葉そのものにさえ幼稚というニュアンスが纏いつく。「夢」では「メシは喰えない」のだ。喰えない「夢」より、喰える「現実」。しかし、そうであるならば、決然として子供でいること、幼稚でありつづけることを、わたしは選び取りたい。喰える「現実」よりも、喰えない「夢」を。"「大の大人でも 初心者だって/おんなじ ことじゃん」(『みかん』)"という、つんく♂の言葉に同意することは、決してヲタのゴッコ遊びではなく、真剣極まる倫理的決断なのである。たとえ大の大人と呼ばれる歳になろうと、"「生きる為に泣いている/赤子のように」(『みかん』)"、人間らしい生の実現を妨げる障害に対してあくまでも抵抗しつづけたい。人生に完成はない、ということが、『みかん』(=未完)という曲名に込めたつんく♂ のメッセージだった。人生の完成という観念は、その御立派な響きとは裏腹に、実際には、残りの人生が持ちうる未知なる可能性に門前払いを食らわせる自分の未来への死刑宣告に他ならない。未だ実現しない夢をあきらめない者は、「不惑」などという言葉に惑わされてはいけないのだ。