こころ
奥さんは、Kに娘をやる可能性など考えていなかった(はず)。なぜなら先生は裕福な財産持ちで、Kは赤貧だったから。御嬢さん本人も当然その積もりだっただろう。
御嬢さんを獲得するために、先生がKを騙したとしても、御嬢さんは左程気にしなかっただろうに。
明暗
読み始めた。面白い。
漱石『こころ』
これを読んだのは何度目か分からないが、ただ圧倒されるばかり。他の長編をかなり読んでから読むと、その主題がさらに切実に迫ってくる。これは名作とか傑作とかいう通俗的観念には到底収まりきらない恐るべき小説。
文体は澄んで、端整であり、力に満ちている。
形式的には破綻しているとも言える。例によって破綻しているとすら言いたい。『行人』同様、長大な手紙で小説は切断される。「先生」の「遺書」を読んだ私のその後については、漱石は語らないで放棄する。当初、漱石の執筆計画としては、先生の死後の私の運命を、その変化を描く予定があったはずだ。しかし、それは「簡単には片付かない」ということが明らかになって、放棄される。放棄されなければ、『こころ』は数倍の長さの大長編になっていただろう。
しかし、放棄せずに、「私」のその後を描いたとして、「物語」には決着がついたであろうか。そうは思われない。先生が直面した矛盾や苦悩が「私」へと引き継がれるだけだったろう。危篤状態の父親を田舎に残して先生の下へ駈け付ける「私」のその後の運命は、おそらく『それから』の代助や「先生」の運命を反復するばかりであろう。結局、漱石的主人公は、この苦悩、この矛盾から決して抜け出すことは出来ないのだろう。
「世の中に、片の付くことなどほとんどない」という『道草』の言葉は、漱石の創作における基本命題かもしれない(あるいは漱石の人生そのものを支配した固定観念だったかもしれない)。ほとんどの長編は、「物語」を満足させる決着をつけることを放棄して、ただ切断されるように終わる。『明暗』は漱石の死によって中断されたが、では、生きて完結させえたとしても、その「物語」に誰もが納得するような結末を漱石は与えたであろうか、おそらくそうではあるまい、と読む前から断言できるぐらいだ。
『こころ』においては「真面目」という観念が重要だ。それは誠実と言い換えてもいい。この漱石的観念は、世間一般の道徳観念とは違う。
先生は「私」を「あなたは真面目だから」と言い、その秘密を打ち明ける相手の資格を与えるが、「私」が本当にそれに値するのかどうか、そこは納得いくように描かれているようには見えない。それは、放棄された部分において、展開されるべき事柄だったに違いない。
「先生」の言う「真面目」の意味合いは難しいし、矛盾している。「先生」はかつて、「K」を裏切った。裏をかいて御嬢さんを獲得した。そこでKは自殺してしまう。Kに対して不真面目であったことの罰を受け、先生はその後の人生を死んだものとして過ごす。幸福であってはいけないものとして。その結果、妻を不幸の道連れとしてしまう。「先生」は愛する妻に決して秘密を明かさない。死んでもなお明かそうとしない。「先生」は、死んでもなお妻に対して不真面目だ。そこには、何かの誤魔化しがある。先生は自分を罰することに掛けては、ほとんど非現実的なまでに真面目だが、妻に対してはそうではない。何故だろうか。
「先生」は遺書の中で、妻に対して正直に真実を言えば妻は許してくれるだろう、と書き、自分は自分が卑怯者だと知れるのが嫌で真実を言わないのではない、と書く。「先生」は妻のために秘密を守るのだ、と主張するが、それはほんとうに妻のためか。
妻と真実を共有し、ともに苦しむことを忍びないと彼は考える。しかし、相手を絶対に傷つけたくない、汚したくない、という地点から、真に理解しあえる人間関係は築けない。それは小説そのものが語っている。
漱石における夫婦関係とは、常にそうしたものである。理解しあえない他人同士としての夫婦。妻を不愉快にし、不幸に陥れるものとしての夫。
おそらく漱石は、幸福な夫婦というものを真実味をもって描くことは出来ない、と思っていたのではないか。
『それから』の代助は(愛していた)三千代を平岡と結婚させる。結果、三千代は不幸になる。その三千代を平岡から奪い取った結果、代助は世間から捨てられる。『こころ』の「先生」は「K」を出し抜いて、御嬢さんと結婚する。結果、自ら幸福を放棄し、妻を不幸の巻き添えにする。『それから』の続編『門』における夫婦関係も不幸といえば不幸かもしれないが、その不幸を理解し合い共有している分『こころ』の「奥さん」の境遇よりもましなように、僕には思えるが、どうなのだろう。
・僕は、漱石研究の本など読んだことがないので全然分からないのだが、「K」とは金之助(漱石の本名)のことなのだろうか。養子に出される、などの設定は、自伝的とも思えるのだけれど。
・『続明暗』を書いた人はいるけれど、『続こころ』を書いた人はいるのだろうか。
・「物語」に拘束されず、その構図を破綻させる漱石的小説は、「ポストモダン的」だと評しうるだろうか。その破綻をどう考えるか。
つづいて『明暗』を読み始める。
漱石が面白くてたまらない。
漱石『道草』
『行人』に続いて『道草』を読んだ。その間に『こころ』が挟まっているのだが、中学生の時分から何度も読んだ小説なので飛ばした。40の今読めばまた違った読みになるとは思うけれど。
『道草』の文体を「引き締まっている」と書いたが、多少物足りない気もする。粘りつくような描写の迫力に欠ける。エピソードで語るべき部分を抽象的な説明文で済ましている箇所が多々ある。エピソードも力が弱く、物語から浮いて、説明のためのエピソードになっているものがあるように思える。
『門』『行人』『こころ』などで追求される「夫婦」という主題は、ここでも中心的なものだが、新潮文庫の解説にあるように、より深く追求されている、とは思わない。自伝的小説ということで生活感はあるが、テーマとして深められた印象は薄い。
そして、『道草』では、漱石は夫婦を冷静に客観的に突き放して書こうとしている。そこに、ユーモアすら生れている。息が詰まるような凄まじい雰囲気ではない。
『道草』の夫婦はよく会話する。お互いがすれ違う場面も多々あるが、ギクシャクしながらも温かみのある時もしばしばある。
そして、なんといっても妻のお産のシーンが幸せに溢れて感動的だ。産婆が駈け付ける前に赤ん坊が生れてしまい、どうしていいか分からずにうろたえる健三の姿は素晴らしい。この小説の最大の読みどころになっている。
この後『明暗』へと続く、長編の流れの中で、この小説は、ホッと息をつく休憩地点のようだ。話もどちらかといえば、金をせびりに来る養父との関係が中心だし、若かりし時の事を冷静に振り返って書いている、という余裕がある。
だからこそタイトルが『道草』なのかな、テーマを追求するという一本道からちょっと枝道に遊んでみた、という小説なのなのかな、という印象を受けた。
「世の中に解決すること、片付くことなど、ほとんどない」というセリフが印象的。
まさにね、まさにそのとおり。
過去の亡霊はいつまでもしつこく纏わりつき、粘着し、頼んでも居ないのにやってきて、現在を憂鬱にし、未来を恐怖に陥れ、不安にさせる。
まさにそのとおり。
深々と実感する。絶望とともに。
次に、『明暗』に進もうか、それともやはり『こころ』を読み直そうか、思案中。
いづれにしても、『明暗』の次は『猫』というのは間違いないんだけど。