倫理的責務としてのTK氏批判Ⅱ

 さて、斯界の大御所をもって自任するらしきTK氏が、加護亜依の件に引き続き、またしても捨て置けぬことを述べている。
 そこで、前回同様に、まったく気は進まないが、この「モーヲタテキスト界隈」で意見を述べる者の倫理的な責務を果たすため、純粋な応答責任の負担として、一言問題点を指摘しておく。

 以下、引用はすべて、「モー神通信」(2007.6.12更新分)からである。


アイドルは「恋愛」という思春期における重大なファクターを犠牲にして仕事に専念し、ファンはそれを応援する−−−言うまでもなくそれは理想的なアイドルとファンの契約関係であり、相互依存関係です。この私であっても、「そうあれかし」と願う気持ちはあります。

 アイドルは自分のプライベートでの恋愛を犠牲にする。そのようなアイドルをファンが応援する。それが理想的なアイドルとファンの契約関係だという。契約!
 契約とは、両当事者が、法律効果の発生を求めて、互いに意思表示し、その意思表示が合致することによって成立し、成立すれば、互いに権利を有し義務を負うという、法的な拘束力を持つ法律行為である。
 このような契約関係があるとすれば、ファンは応援するという債務を負い、アイドルはパフォーマンスを提供するだけではなく、恋愛を犠牲にする債務(法的な義務)を負うというのだ。TK氏はそれを「理想的」な関係として「願う」というのだ。
 噴飯物である。
 相手方に恋愛しないことを求める権利など、公序良俗違反として無効となる(民法90条)ことは、当然である。
 仮にそのような契約が成立したとして、アイドル側が債務不履行した場合、ファン側は、裁判所に「処女回復請求権」を行使してアイドルの恋愛の差し止めや撤回を求めることが出来るか。出来る訳がない。そのような契約には訴求力は認められない。
 従って、そのような契約が仮に成り立つとしても、それは、当事者間でのみ効力を有する(訴求力のない)自然債務のみを負わせるものだと考えられる。
 だとしても、アイドルの恋愛が発覚したときに、事務所やアイドル本人に対して、恋愛差し止め請求など出来ようはずがないのは同様である。
 では、せめて、恋愛の発覚という債務不履行によって損害が生じたと主張し、損害賠償を求めることが出来るか。それすら出来ようはずもない。
 結局、この「契約」というのは、ファンの側が「裏切られた」と感じてアイドルの応援をやめる、というそのときに、自己を正当化する体のいい言い訳として機能するより他に意味のないものである。

 もちろん、事実としては、そのような契約など、どこにも存在しない。
 もちろん、「モーニング娘。としての約束」なども、どこにもなかったはずだし、少なくとも私個人は、そんな約束をした覚えはない。
 (この法律的比喩を続けるならば、そのような存在しなかった「モーニング娘。としての約束」を持ち出し、「それを破ったからケジメとして脱退します」、といって一方的に「契約」を解除するほうが、余程不当だと私は思う)

 さて、そのような「契約」の存在を「願う」TK氏ではあるが、しかし、氏も、


だからと言って彼女たちに恋愛を自重しろとは言えません。

 と述べている。その理由は、


「果たして今のモーニング娘。がその犠牲に値するか」あるいは「今のモーニング娘。がそれを強制できる環境か」

 という点にあるという。予想通りというか、ある種の「理屈」が通っている点が、面白いのだが。
 つまり、氏は、モーニング娘。が全盛期のように売れていて、「ハロプロ構造改革」のような「理不尽」な目に遭うこともなく、メンバーが生き生きと仕事が出来る環境が維持されていさえすれば、依然として、「彼女たちに恋愛を自重しろ」と言いつづける気でいるのである。

 そこには、現実を生きる少女の現実の幸福を犠牲にして成立するアイドルという制度そのものに対する問題意識は、微塵もないと言うべきだろう。

 近時、そのような「アイドルの前近代的制度性」が、大衆、とくに若い女性の共感や支持を得られなくなったことが理由で、アイドルシーンは衰退した、という指摘がなされている。わたしもその解釈を支持する。
 その「衰退」(アイドル冬の時代)の後に、あえて「アイドル」を自らの人生として引き受け生き抜く姿を見せたモーニング娘。は「アイドル」であると同時に「『アイドル』を批評する存在」でもあったはずだ。
 しかし、そんなモーニング娘。であるにも関わらず、ファンの中には、時代錯誤としか思えない旧態依然たる「アイドル処女幻想」に依存する者が多数いる。むしろ、そういうファンに現在もなお「アイドル」が支えられている、という動かしがたい現実がある。あまりの虚脱感と無力感に、深い溜め息が出るばかりだ。
 情けないとしかいいようがない。

 無論、歴史上、偉業と称されるような英雄的な仕事を成し遂げた人は、多かれ少なかれ、仕事のために私生活を犠牲にしているものだ。
 しかし、それは自ら望んでそうするべきものであって、事務所に命令されて従うといった性質の話ではない。
 それに「アイドル」というタレント活動は、そのような、偉業と称されるような英雄的な仕事とまでは通常言えないであろう。
 (わたしがこう言ったからといって、「モーニング娘。は信じられないほど素晴らしい存在だ」と私自身が考えていることと、いささかも矛盾するわけではない。その素晴らしさは「処女性の保持」とは無縁に成立しうるものである。言い換えれば、モーニング娘。の成し遂げた偉業は「処女性の保持」とは何の関係もない)

 しかも、あろうことか、氏は、

私は勝手ながら石川さんにだけはそれを−−−私生活を犠牲にすることを−−−望んでいたいのです。どんな時でもひたむきであり続けた彼女までがその価値を放棄したなら、それはおそらく名実共にその価値がこの世から失われたことを証明してしまうからです。

 として、尚も、石川梨華(と新垣里沙)には、「処女性の保持」を望むというのである。
 この二人だけは、おそらく「モーニング娘。は処女性を保ってほしい」(テレビ東京菅谷社長)というファンの身勝手な要望にも応え続けてくれるであろう、と期待されているのである。
 「処女性」を期待されなかった高橋愛様をはじめとするモーニング娘。の皆様、まことにご愁傷様でした。
 という(シャレにならない)冗談はさておき。
 その前段にも大きな問題点がある。

 

石川さんだけが、どのような過酷な状況の中でも、常に全力で仕事に取り組んできました。

 石川さんだけが! では、矢口真里は、加護亜依は、辻希美は、藤本美貴は、「常に全力で仕事に取り組んで」は来なかった、とでも言うつもりなのか。
 そう決め付けることほど、彼女らにとって酷いことはないだろう。

 話を戻して、石川梨華が保っているとされる「価値」とは何か。
 曖昧な文面からは明らかではないが、それが「アイドルの処女性」ないし「アイドルの処女性に基礎付けられる価値」を指すであろうことは、読み取れる。
 これは、男の身勝手な欲望の肯定そのものに他ならない。
 おそらくフェミニズム的立場からは、そのような男の横暴を打破するために、石川梨華新垣里沙こそ率先してそのような価値を放棄すべし、という主張もありうるところだろう。わたし自身はフェミニズム言説に与するわけではないが。

 しかし、少なくとも私は、「処女性を保持すると期待できるか否か」という性差別的、女性蔑視的基準によって、石川梨華新垣里沙と、他のメンバーを区別するようなマネだけは、自らに固く禁じたい。

 ところが、もちろん氏は、違う立場を鮮明にする。


新垣さんも同様です。どんな時でもモーニング娘。への愛を失わなかった彼女が、グループに対し、私生活を犠牲にするほどの価値を見出せなくなった時、かつて私をあれほど夢中にさせた最期の幻想がこの世から消えうせてしまうのです。

 「最期の幻想」原文ママ)とは何か?
 それは、文面全体から明らかなように「アイドル=処女幻想」、もう少し穏健に言えば「アイドル=清純幻想」である。
 氏を夢中にさせたというものが、かかる安っぽい幻想にすぎないとすれば、いささか驚くべきことではある。
 当初から、非処女であると考えるのが自然であった中澤裕子さんは、氏にとってアイドル失格だった、眼中になかった、ということなのか。
 また、同じ冗談を繰り返すのは気が引けるが、高橋愛以下の、他のメンバーは、氏から期待されていないらしい。それに、久住さんや光井さんが、わが身を犠牲にして「幻想」の延命を図ったとしても、それは氏の救いにはならないらしい。なんとも失礼な話であるように感じるのは私だけであろうか。

 しかも、全文の締めの言葉もふるっている。


ただ、それでも私は、その時が来ても、彼女たちを声高に批難するのでも恨むのでもなく、せめて「今までありがとう」と言えるファンでありたいと思います。

 この「今までありがとう」という挨拶は何を意味するか?

 A:「今まで処女性を保ってくれてありがとう。これからは非処女であることを前提に、今までどおり応援し続けます」
 B:「今まで処女性を保ってくれてありがとう。非処女であることが明らかになったあなたがたに用はありません。さようなら」
 極めて好意的に読めば、Aである可能性もないとはいえない。(あるいはA、Bの中間である可能性も)
 しかし、文面全体が「アイドルの処女性」という反動的な価値を、何の疑いもなく称揚するものである以上、Bであると読むのが自然であろう。
 Aという態度を取りうる、と言うのであれば、そもそも、ここまでして「アイドルの処女性の保持」を願う必要もないからだ。

 従って、この最後の部分は、「わたしは処女性を放棄したアイドルは応援し続けられない」さらに一般的に「処女性を放棄したアイドルはファンから見捨てられる」という言外のメッセージを読者に伝える言葉として機能する
 そして、そのことによって、「アイドルは処女性を保持せよ」という反動的な要請を支持し、少女の現実の幸福を犠牲にして成立するアイドルという制度をさらに強化して延命させることに加担するのである。

 私自身は、藤本美貴がフライデーされても、モーニング娘。でい続けてほしいと切実に願い続けている。新垣里沙亀井絵里が同じ目に遭ったとしても、同様に彼女らを応援し続けるし、モーニング娘。を辞めるな、と願うだろう。
 妹重に、姉重には彼氏がいるらしいとバクロされても、裏切られたといって姉重フォルダを削除したりしない。ん?

 フライデーごときでガタガタ騒ぐな、とばかりに、堂々とシラを切りつづけ、モーニング娘。でいつづけ、そうして「アイドルという制度」に揺さぶりをかけてほしいと夢想する。
 しかし、経済原則に従って動く現実社会にあって、その可能性が限りなく無に近いこともまた自覚してはいる。

 処女は金を生み、非処女は生まない。

 その冷酷な経済的事実が、乗越え不能な巨大な壁となり、眼前に屹立するばかりである。

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