倫理的責務としてのTK氏批判

 もう二度と、読むこともないだろうと思っていた。
 加護ちゃんの一件で、つい読んでしまい、そうして、やはり後悔した。
 やはり誰かが、TK氏をきっちり批判してあげないといけないという、倫理的な責務にも似た感情を、ひしひしと覚える文章だったから。

 以下、引用は、「モー神通信」TK氏 2007.3.28から。

 

モー神は加護ちゃんの復帰と共に再開する予定だった。

 つまり、サイトを休止して、加護ちゃんとともに謹慎。そして、再起とともに復活。という計画を立てていたわけですね。
 そういうのは極めてナルシスティックな演出だとは思いますが、個人の自由なのでいいです。問題なし。

 

サンタモニカはそのための前フリだったんだけど

 そして、そういうナルシスティックな演出のための「前フリ」として、別名のサイトに変わったことにしていた(最初から「モー神」の再開を念頭に置きつつ)。
 つまり、本心から吉川さん推しのサイトとして生まれ変わる気はなかった、ということなのでしょう。たんなる再開のための「前フリ」だったと言うのですから。
 そんなナルシスティックな演出に利用された吉川さんは、いい面の皮ではないでしょうか。

 しかし、その点もまた、たいした重要問題ではない。
 問題点は、次の部分。

 

世間の誰もが、分別のつく年齢として加護ちゃんの責任を問い、彼女を責めるだろう。それでも、私は、こちら側の人間として、こんな大人ばかりでゴメン。こんな世界でゴメンと、加護ちゃんに謝りたい。加護ちゃんがいるのにふさわしい世界にしたいんだけど、そんな世界を信じたこともあったんだけど、こんなに無力で、本当にゴメン。

 ここに言われている「加護ちゃんがいるのにふさわしい世界」という考え方が最大の問題だと考える。
 この表現には、この現実世界は、薄汚れた大人の世界であり、「加護ちゃんにふさわしくない」という前提がある。
 では、「加護ちゃんがいるのにふさわしい世界」とは、一体いかなる世界なのか?

 

親元から加護ちゃんを責任をもって預かったはずの大人、加護ちゃんの仕事をちゃんとプロデュースできなかった大人、加護ちゃんの満たされない心につけ入った大人、お金のために加護ちゃんの私生活をつけ回した大人

 おそらく、そういう大人のいない世界こそ、加護ちゃんにふさわしい、ということなのであろう。
 そして、そのような世界は実在しない。
 むろん、理想論としては、そのような世界が実現することは素晴らしいことかもしれない。
 しかし、それはユートピアであり、それを望むのは一種の「ピーターパンシンドローム」(子供でいたい症候群)に過ぎない。

 今の加護亜依に必要なことは何か?
 それは「加護ちゃんがいるのにふさわしい世界」が実在しないことを加護ちゃんとともに嘆いたり、それが実在しないことを、大人の責任だと感じて謝ってもらったりすることではない。

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