漱石の現代的可能性

 というエントリを前にも書いたようなデジャブに襲われた。
 おそらく漱石の追及し格闘した主題は、そのままでは現代に通用しないだろう。漱石の悩みは、現代では「そんなことで悩んでいられるなんてお気楽なご身分ね」と一蹴されるであろうし、漱石の「反社会的」は、今では日常茶飯事に成り果てている。それだけ世界は劣悪化している。
 しかし、漱石が描いたような社会と個人の対立や、個人の存立の可能性を求めるという姿勢は現在もなお有効だと考える。
 漱石の取る「神の視点」は、批評性がある。三人称というものを見直そうと思った次第。
 また漱石の、比喩や小道具の扱いは実に冴えている。就いて学ぶべし。

 『彼岸過迄』は、次第に面白く思えてきた。最初は失望しかけたけど(笑)

はてなブログ

 はてなブログだけ残して、あとのブログは整理しようか、と思案中。
 その場合は、ここのタイトルを『娘。魂の唯物論的な擁護のために』に変更し、現在の『娘。魂の唯物論的な擁護のために』は『(旧)娘。魂の唯物論的な擁護のために』として凍結することになる予定。
 本当ははてなブログは好きじゃない。はてなは「日本のグーグル」と言われることもあるようだけれど、ユーザーを囲い込もうという姿勢が強いように個人的には感じている。どこか閉鎖的。「はてな市民」なんて言葉や、はてな村内部でしか通用しないであろうようなキーワードの定義とか。私も「はてな市民」に認定されているけれど、そんな共同体に所属している覚えはない。単にネット上のサービスを利用しているだけ。
 しかしながら、「はてな」はブログサービスとして先駆者だったことと、タイミング的な事情で、モーヲタブログがやたらと多く、しかも、はてな内部での連絡が密な構造になっているので、モーヲタブログをやるなら「はてな」でやるのが何かと便利という現実がある。
 なので、そういう現実に流されるように、今後、ここを利用して行くか、どうするか、を思案中。
 もちろんメインのサイトが『DDMM.』であることは変わりないのだけれども。

追記、漱石、柄谷行人

 『彼岸過迄』を半分で放棄。『行人』を読み始める。そのあとは『道草』『明暗』の予定。プルーストが中断したままだ。ニーチェも。

 ところで、柄谷行人が『批評とポストモダン』のなかで『門』について書いていた。
 宗助の欲望は他人の欲望に媒介されているので、そもそも「自然対制度」という図式はなりたたない、というような話。
 たしかにあらゆる欲望は他人の欲望に媒介されているのかもしれない。
 だからといって、漱石が書いたような対立や矛盾や苦悩というものの意味が薄れる訳でもない様に私は思う。
 むしろ、柄谷行人の記述のほうが「ポストモダン思想」の典型的な思考の枠組に規定されており、その檻の中に閉ざされているような印象を受けるのだが。