根源的な暴力について

青木ヨーマさんの
http://d.hatena.ne.jp/yomayoma/20080223/p1
へのコメントです。

・ヨーマさんの議論とはすれ違うのか、どうか、わかりませんが。

・>僕も根源的な暴力というものがあると考えていて、それは自分の信念による要請だとも思っている。

 「信念による要請」という点が、今ひとつ分からないわけですが。僕としては、暴力は、唯物論的次元で要請される必然であると感じています。森であれ、海であれ、およそ生命現象のあるところ、生存を賭けた暴力闘争があり、それは人間も例外ではない。他の生命を傷つけることなく生きられる動物は存在しないという意味で暴力は不可避的です。
 にもかかわらず、人間はそれを暴力と名づけ、原罪と捉え、その廃棄を希求することが出来る。
 暴力の全面的廃棄が可能なのか、それともうまく管理すべきなのか。
 今村仁司の暴力論や、アドルノの「啓蒙」論(「啓蒙」は、自己保存の要求が、合理的な理性の力で実現されながら、その理性の力が最悪の暴力として結果する過程として、アドルノによって記述されるわけですが)を導きの糸として、考えて行きたいと思います。

・以下、自分のブログに書いたら炎上しかねないことを人様のコメント欄に書くのは憚られるので、めずらしく、はてなダイアリーからTBとかしたりして。

・性暴力、性犯罪についてですが。
・和姦/強姦の境界線は何かといえば、それは女性側の気持ち一つという側面があります。女性の同意/拒絶の区別が、すなわち正常な性交渉/性犯罪の区別そのものです。例えばキムタクとなら「夢のような体験♪」であっても、まったく同じ行為の相手が仮にヌクミズヨウイチ(失礼な)だったら「マジきめーんだよ!ありえねー!」と感覚され、、、、という次第です。むろんかかる選択は、女性の側の正当な権利の行使であるかもしれません。しかし、それがどのようなレベルで正当化されうる区別=差別であることか。いい男を選ぶ、というのは種の保存のための生命のレベルでの根源的差別=暴力の表れであるかもしれませんが。

・だから、性暴力などありえないという意図ではまったくないことはご理解いただけるかと思います。それは、現実に暴力であり、犯罪であります。

・金銭=性的価値を、所有者が「あげるよ」と同意すればそれは贈与=和姦だけれど、同意がない場合は窃盗=強姦、と言えるわけで、その区別をつける権利は利益処分権者の側が保有します(当然ですが)。そして、一夜限りの恋人、瞬間恋愛(宮台)などなどの言葉で表現されるように、男女が性交渉に到るまでの垣根が極めて低い社会では、「いいよ♪」「やっぱやめた!」の判断も、気まぐれに反転転換するように思われます。判断の耐えられない軽さ? これを裏側から言えば、犯罪の予測可能性が低下するとも言えるでしょう。それに対応して、男側の行為も「男らしく迫る」「押しの一手」と、違法性のある「暴行または脅迫」の境界線がどこにあるのか、判断が難しくなる、という面もあるように思われます。

・男女を問わず、「賢い」「イケメン」「強い」「金持ってる」「セクシー」「可愛い」「優しい」「かいがいしい」「誠実」などの美点を以って、相手を取捨選択(=差別)することは正当でありましょうが、それは同時にまた、エゴの正当化に他ならないとも思われます。


・さらに、炎上しかねない、とビクビクしながら書くわけですが。
・「沖縄」に関しては「基地賛成/反対」という激しい政治的対立があるわけで、少女の性的被害も、いやおうなくその政治的対立に飲み込まれ、いわば「政争の具」にされてしまう、という面もあるように思われます。
・これが、仮に、基地の街の出来事ではなく、どこかの田舎での、ちょっとコワモテの(?)、イケてる(?)お兄ちゃんと、そういう相手と普通に夜遊びする少女との間での、性的トラブルであったなら、これほど全国を騒がす事件にはならなかったのではないか、と考えると、やはり、日米関係そのものが不幸を拡大し、二次被害セカンドレイプ)を引き起こす根源なのか、と考えたり。

・当然のことながら、米兵が日本国内で犯罪を犯したら、日本国内の法で厳正に裁くことが出来るようにしなければいけないでしょう。基地の敷地内に逃げ込めば、日本側が米兵の身柄の引渡しを要求できないというような不平等な協定や条約は、当然、改正されねばならないでしょう。


 ノノ*^ー^)<炎上上等!

 ||c| ・e・)|<誰も読んでないから