ハッチマン氏の発言の問題点について

 道重造反と題されたハッチマン氏のエントリについて、以下、検討する。



 まとめて言えば、彼のエントリは、道重さゆみの例の発言を「結局は事務所批判」だと捉え、発言した本人とそれを放送した関係者を批判している。

 例の発言がそのような「事務所批判」ではないという私の見解については既に述べたので繰り返さない。

 彼の見解のうち、道重さゆみにはアーティストとして弱点なり、欠陥なりがある、という点については、特に異論はない。評価は受け手の自由だ。

 しかし彼の、例の発言に対する解釈やそれを支える道重さゆみ観については、いささか疑問がある。私自身、道重さゆみの全ての発言、言動をつぶさにチェックしている訳ではないから、断言は控えるけれども、違和感を拭えないのは確かだ。

 具体的に発言を追っていこう。

台詞やパート欲しがるだけ真剣に努力しているのか
 彼は、彼女が「台詞やパート」を欲しがっているとし(それを欲しがるのは誰しも当然だが)、それに値する努力の存在を疑問視している。

 たしかに道重さゆみの歌唱やダンスの技術面が、例えば高橋亀井田中らに比べて劣るということは、熱烈なさゆヲタであっても否定しないだろう。そんなことは分かりきっていることだ。しかし、にもかかわらず、彼女は、あの過酷なコンサートツアーを他メンの足をひっぱることもなくしっかりと勤め上げているのではないのだろうか。もともと劣る能力をカバーして他メンとの共演を果たすために、人並み以上の「真剣」な「努力」がないなどとは、私には到底思えない。

こういうことを吐露すれば自分に何がしかのチャンスが来ると思っているフシがあって、
 「こういうこと」とは、要するに愚痴や不平不満のことなのだが、彼女がそう「思っているフシ」があるというのは、世に言う下衆の勘ぐり以外の何であろうか。

例えば先日発売の「ペッパー警部」でも印象的なパートを貰えたりしていて、云うまでもなく野村監督ばりのボヤキを連発してきた過去があるんだけど、それで台詞貰えたりパート貰えて本気で嬉しいのかといつも思ってしまう。
(中略)
同情でそんなもの貰ったって仕方がないし、価値がないじゃん
 彼の解釈によれば、道重さゆみがあの「ペッパー警部よっ♪」というセリフ(まさに道重さゆみのために作られたかのような!)を貰えたのは、彼女の可愛らしいキャラクターを楽曲の中で活かすためというより、彼女が「ボヤキを連発してきた」ために「同情でそんなもの貰った」ということになるらしい。嗚呼!

 私は、浅学にして道重さゆみが「ボヤキを連発してきた過去」については知らないのだが、それによく似た場面なら見たことがある。『音楽戦士』という番組に出演したときのつんく♂さん、さゆみに歌割りをください!」という発言だ。これをベタに受け取るなら「おねだり」の実例ということになるのだろう。しかしこれはネタである。ジュンジュンが、わたしの「ウン」と交換しますか、と言い、MCに「ウンとヘルプミィならどっちがいい?」と訊かれた道重さゆみが、カメラ目線で「ヘルプミィです!」という、実に見事なオチまでついていたのだった。

 これは紺野あさ美が最初期にコンサートのトークで「歌もダンスも完璧です!」というセリフを貰っていたことを思い出させる。つんく♂は、これを敢えて演出するツッコミどころとして紺野あさ美に与えたのだった、ファンからの「完璧も何も、お前は歌ってないやんけ!」というツッコミを想定して。つんく♂さん、さゆみに歌割りをください!」と番組で発言した道重さゆみは、同じ役割を与えられていると言える。これが台本にせよアドリブ(だったら凄いが)にせよ、彼女は、それが「歌ド下手のくせに何言うてんねん?」というツッコミを呼ぶボケとして成立することに自覚的である。聡明な彼女が、それぐらいの客観的な自己認識を持っていないとは、私には思えない。

辛い部分に目を瞑って美味しい部分だけ求める道重というのは正直見ていて悲しいものがある。
 彼女は「辛い部分に目を瞑って」いるのだろうか。むしろ辛い部分を自覚して悩んでいるからこその悔し泣きなのではないのだろうか。「美味しい部分だけ求める」に到っては下衆の勘ぐり(その2)以外に評する言葉が見つからない。

道重はモーニング娘。としてどういう方向性でどのようなことをしたいかビジョンが皆無って自分で告白しちゃっている
 道重発言をどう聞いたら、そのような「告白」に聞こえるのか、私にはよくわからない。

 これもさゆヲタならきっと賛同してくれると信じるが、彼女は、自分の武器が可愛らしくセクシーな容姿、そしてトーク、とりわけその両者のギャップの魅力にある、ということは当然自覚しているだろうと思う。30分だったソロラジオの枠を1時間に拡大するほどにラジオを頑張っている彼女にビジョンがないとは思えない。

 もしかすると、一時期の高橋愛が自分はバラエティやトークには向いていないと悲観して、その方面で自分を出すことを放棄して歌唱やダンスに集中したほどには、道重さゆみが歌唱やダンスを放棄していないことが、「方向性」が定まらず、「ビジョンが皆無」と思えるのだろうか。

 しかしモーニング娘。は歌手であり、道重さゆみモーニング娘。の一員である以上、彼女が歌唱やダンスに意欲を燃やし、執念を見せることは、あたりまえのことではないか。たとえ分不相応と揶揄されようとも。

例えば春のツアーではモーニングコーヒーを含めて失笑させられる場面が多かった。

それは歌手として致命的ですらあると思う

 彼がこういう感想を持ったという事実については、何も言うことはない。「失笑」されるのは、モーニング娘。デビュー当時からのお家芸であって、道重さゆみに特権的な事柄ではない。

ないものをねだるよりも自身の良さをもっと活かす方向で勝負すればいいと思うわけですよ。
 「ないものをねだる」については、下衆の勘ぐり(その3)とだけ記しておく。

 以上のような彼の発言に、道重さゆみに対する悪意はないにせよ、そこに偏見なり誤解なりがまったくないとは言い切れないだろう。

 そして、彼は、道重さゆみのラジオでの例の発言を、「道重造反」というタイトルで要約する。これは事務所批判だと言うのだ。道重さゆみ全学連の闘士よろしくヘルメットをかぶりゲバ棒を持って「打倒高橋体制!」を叫ぶ、ということだろうか。

 むろん、そういう解釈は成り立ちうるし、解釈は自由だとしか言えない。

 しかし、このような解釈を、この時期に公表するその行為に問題がないとは言い切れないように思う。

 彼は冒頭部分で、

これは高橋ヲタとしてではなく、元道重反応厨としての意見なんですけど、
 と、周到に断り書きを入れているが、そうしたところで、彼が、高橋系のブロガーとして名の通った人物であるという事実をカッコに括れるわけではない。だとすると、彼のエントリ全体が、道重さゆみ発言に対する高橋ヲタの神経過敏な過剰反応として読まれることになるだろう。

 それは結局のところ、「事務所による高橋愛ゴリ推し」という事態が実在し、他メン(とそのヲタ)は嫉妬から愛ちゃんを批判・誹謗中傷し、高橋ヲタ側は反撃として他メン(とそのヲタ)を攻撃し返すという、なんとも情けなく、陰惨で、不幸な構図にすんなり収まってしまうのだ。収まるばかりではなく、その地獄絵図に油を注いで、さらに醜く燃え上がらせるのに加担するものとして機能せざるをえないだろう。



 むろん、道重さゆみの発言を批判し、その態度を諌め、あらずもがなの忠告をすることもまた表現の自由ではある。しかし、モーニング娘。の主役を張る高橋愛のファンとしての誇りがあるなら、こういう微妙なタイミングにおいて、道重発言に理解を示すことは無理にせよ、せめて、超然として沈黙を貫くのが然るべき態度であるように私には思える。

 そうでなければ、狼という愚かな場所での愚かなお祭り騒ぎの尻馬に乗っていると見られてもやむをえないだろう。



(追記)

 仮に、彼が「あえて憎まれ役を買って出る」気で忌憚のない提言をしているつもりであったとしても、残念ながら、上記のような誹謗中傷としか思えないような偏見まみれの発言が、生産的で「建設的」な意見として機能することは到底望めないだろう。

 (もし私がさゆみんなら(痛)、こんな文章をみたらモニターに向かって呪いの言葉の一つぐらいは呟くところではあるが、赤子のように清らかで海のように広い心を持った本物の道重さゆみなら、あるいは、失礼極まりない表現で、今更分かりきっているような「課題」を指摘されても、心から有難いと思って感謝するかもしれない。私の知っている彼女はそんな聖人君子ではなくて、もっと人間くさいヤツだけれども。)

 そもそも彼のエントリを私が知ったのは、問題となっている狼のスレッドで、その文章がコピペされていたからだった。その文章は、狼という愚かな場所で、高橋や道重を叩きたいだけの馬鹿者や、アンチになりすまして祭を大きくして騒ぎたいだけの馬鹿者たちに、いいように利用され、不毛で虚偽的で醜い対立を助長していたのだった。なんと非建設的なことだろうか。